2回目の開催となったwlhelm WAGENFELDの展覧会。以前にも増してプロダクトを幅広く集めました。今回はベルリン在住のデザイン史研究家Christoph WOWARRAの協力のもと開催致しました。
Summary
名 称 : ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルド 理念と信念
日 時 : 2024年8月2日(金)〜8月31日(土) 11:00~17:00 ※会期終了いたしました
会 場 : STILL LIFE(スティル ライフ)
場 所 : 〒461-0003 名古屋市東区筒井1-14-18
主 催 : STILL LIFE(スティル ライフ)
協 力 : THOMAS REICHE、CHRISTOPH WOWARRA、株式会社YAMAGIWA
Story
1900年4月ドイツ・ブレーメン生まれ。学生時代はブレーメンなどの美術工芸学校で銀細工職人として教育を受け、その後バウハウスにてモホリ=ナジに師事し創作活動に従事します。1940年代、戦争が大きく影響し、それまで活動していた場所がナチスによって閉鎖されてしまいます。戦後はドイツの工業デザインに大きく貢献し、数多くのメーカーから彼の作品が発表されています。世界的にも評価が高く、数多くの工業デザイナーに大きな影響を与えました。
あまり知られることのなかったドイツ工業デザインの巨匠、ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルド。本国からのヴィンテージ作品を展示販売すると共に彼の功績を探ります。
Works
Life
1900.4.15
1923
1926
1930
1931
1932
1934
1935
1937
1942
1945
1946
1948
1951
1952
1954
1955
1957
1960
1962
1964
1965
1968
1978
1987
1990.5.28
1998
ハインリヒ・ヴィルヘルム・ヴァーゲンフェルトと妻エリザベート(旧姓ヴィヒマン)の息子として、ブレーメン・ヴァレの Vollmersstraße 52に生まれる。 父親は熱心な社会民主党員で、港で働く運輸労働者の職場委員を務めている。
ヴァイマル国立バウハウスでラースロー・モホリ=ナギとクリスチャン・デルの指導の下、金属工房を開く。 1924年、ヴァイマル職人組合で銀細工師およびチェイサーとして職工試験を受ける。 金属器具と「バウハウス・ランプ」をデザイン。
ドイツ工作連盟に参加。 バウハウスの後継機関であるStaatliche Bauhochschule Weimarの金属工房の助手となる。 ここでドアハンドル、コートラックなどが制作された。
ナチスによる迫害で所属していたStaatliche Bauhochschule Weimarが閉鎖されるが、ヴァーゲンフェルド と他の教師が全てのデザイン上の権利を引き継いだ。 シュヴェービッシュ・グミュントでジュエリーの作品も制作された。
Jenaer Glaswerk Schott & Genにて一連のティーポット、スーププレート、ボウルやミルクポットなど がデザインされた。10月にはベルリンにある州立美術学校の教授となり、ミース・ファン・デル・ローエや L・ライヒと知り合う。
ドイツガラス技術協会の会員となる。
磁器メーカーのフュルステンベルクのコーヒー、ティー、ディナーサービスをデザインした。
VLGのアートディレクターに就任。様々な専門家をVLGに招いた。
Jenaer Glaswerkとの契約は終了したが、個別で受注した。 パリ万国博覧会でフュルステンベルクのコーヒーティーディナーサービスがグランプリを受賞。 ミラノトリエンナーレでは銅メダルとなる。Pelikanのためのインクボトルをデザイン。
兵役につくが翌年、ガラス産業からの要請により免除となる。 ナチスへの参加を拒否し、罰として彼は東部戦線の航空隊に送られました。
捕虜になり、9月にヴァイスヴァッサーに戻るまで最初はアメリカ、後にロシアの捕虜収容所に収容された。
戦後、VLGの再建に取り組むが翌年買収され「OLG (Oberlausitzer Glaswerke) 」と改名する。 その後も改善に取り組み30年間の契約を結ぶ。 のちにヴァーゲンフェルトはグロピウスに次のように書いている。 「戦後、ヴァイスヴァッサーほど自由な決断を下すことができた場所は他にありません。」 その後、ヴァーゲンフェルトはいくつかの芸術大学、工科大学で教鞭を取りました。
4月、WMFと契約しアートディレクターに就任。
WMFのグラスがミラノトリエンナーレで金メダルを獲得。
ローゼンタールとコンサルタント契約を結ぶ。 ドイツデザイン評議会へ任命される。 ドイツ連邦産業協会(BDI)の工業デザインワーキンググループのメンバーとなる。
シュトゥットガルトでの彼自身のワークショップ「Wagenfeldワークショップ」を設立。
Lindnerと契約。数多くの照明器具をデザインする。 アスペン国際デザイン会議に参加。一方で、ドイツ工作連盟を辞任。
ミラノトリエンナーレで彼の作品全体がグランプリを獲得。
チューリヒ美術館での展覧会。 その他の展覧会 アムステルダム州立美術館(1961年)、 ミュンヘン新美術館(1961年)、ベルリン芸術アカデミー(1962年)。
シュトゥットガルト州立芸術アカデミーの名誉会員となる。
シュトゥットガルトの名誉上院議員となる。
ベルリン芸術アカデミーの会員となる。
ドイツ工作連盟4番目の名誉会員。(グロピウス、シャロウン、ミース・ファン・デル・ローエに続く)。
「Wagenfeldワークショップ」が閉鎖。
ブレーメンの国立美術館、博物館で彼の作品の回顧展が開催される。
ドイツ・シュトゥットガルトにて没。スイスのコレックス・ボシー(ジュネーブ近郊)に埋葬。
ドイツ・ブレーメンにWilhelm Wagenfeld Stiftung・Wilhelm Wagenfeld Hausを開設。