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日本とアメリカ、2つのアイデンティティを持つイサム・ノグチ。

このAKARIの中にも「本質」と「意識」という言葉を持ち出し生涯をかけて向き合い作品を多数残しています。 昨今の世界的な日本デザインのブームにより廃盤となっている品番が多いAKARI。今回はその廃盤となったデッドストックの作品を中心にヴィンテージも交えて展示、販売を行います。是非この機会にご来店をお待ちしております。

Summary

名 称 : A K A R I   ESSENCE and AWARENESS  Isamu Noguchi

日 時 : 2022年7月29日(金)〜9月10日(土) 10:00~17:00 ※会期終了いたしました 

会 場 : STILL LIFE(スティル ライフ)

場 所 : 〒461-0003 名古屋市東区筒井1-14-18

主 催 : STILL LIFE(スティル ライフ)

Story

 詩人であり英文学者の野口米次郎とアメリカ人で教師で編集者のレオニー・ギルモアとの間にロサンゼルスで生まれたイサム・ノグチは、東西の間でアイデンティティの葛藤に苦しみながら、独自の彫刻哲学を打ち立てた20世紀を代表する芸術家です。幼少期を日本で過ごし、20代、パリでは彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと出会い、そのヴィジョンに大きな影響を受けました。1951年(47歳)日本に滞在中、広島に向かう途中に(別に京都とも語っている)長良川の鵜飼を見学しようと岐阜に立ち寄ります。そこでノグチは当時の岐阜市長より岐阜提灯の将来について相談を受け、岐阜提灯に関心を寄せました。尾関次七商店(現 株式会社オゼキ)の提灯工場を見学し、提灯の制作工程や材料を理解したノグチは、その単純さと柔軟さに以前から取り組んでいた光の彫刻、「ルナー彫刻」の新たな展開の可能性を予感し、さっそく次の日の晩には2つの新しい提灯のデザインを行いました。これら岐阜で制作した新しい変形提灯を、ノグチは「AKARI」と名づけました。

 それ以来、ノグチはしばしば岐阜を訪れ新作の「AKARI」に取り組み続け、展覧会が開催されるたびに、新しい形や大きさのモデルを発表していくこととなります。この竹ひごと和紙からなる光の彫刻に日本的な美しさ、儚さも見出し彫刻としての作品性の是非も議論を呼びました。

日本とアメリカ、2つのアイデンティティを持つノグチ。この「AKARI」の中にも「本質」と「意識」という言葉を持ち出し生涯をかけて向き合い作品を多数残しています。

 昨今の世界的な日本デザインのブームにより廃盤となっている品番が多い「AKARI」。今回はその廃盤となったデッドストックの作品を中心にヴィンテージも交えて展示、販売を行います。

Works

Life

1904.11.17

1907

1913

1918

1923

1924

1926

 

1927

 

 

1929

 

 

1930

1931

 

 

1935

 

1937

 

1939

 

1941

 

1942

 

 

1943

 

 

1946

 

1949

 

1950

 

 

 

1951

 

1952

 

 

 

1955

 

1956

 

1965

 

1967

 

1968

 

1970

 

1975

 

1981

 

1983

 

1987

 

1988

1988.12.30

カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれる。父は詩人の野口米次郎、母は作家で教師のレオニー・ギルモア。

当時米次郎は日本に滞在中であった。

 

母と日本に移住。東京・高輪の森村学園附属幼稚園に通園する。

 

「イサム・ギルモア」として横浜市のセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジへ入学。大工、指物師に弟子入り。

 

インディアナ州の学校に送られるが、学校が閉鎖され軍事訓練場となったため、地元の公立学校に写る。

 

コロンビア大学医学予科コースに入学。医学者野口英世と出会い、医師ではなく芸術家になるように助言を受ける。

 

日本より帰国していた母レオニー・ギルモアよりニューヨークのレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の彫刻クラスを勧められ、コロンビア大学を中退し、彫刻に専念する。「イサム・ノグチ」を名乗る。国立彫刻家協会会員となる。

 

ブラマー画廊でのコンスタンチン・ブランクーシ展に深い感銘を受ける。

 

グッゲンハイム奨学金を受けてパリに行き、彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの助手をつとめる。アレクサンダー・カルダー、モリス・カンターらアーティスト集団と交流を持つ。

 

奨学金の3年目の更新はならず、ニューヨークに帰る。カーネギー・ビルにアトリエを構え肖像彫刻で生計を立てる。

初の個展を開催し、パリで制作された抽象彫刻を展示する。バックミンスター・フラー、マーサ・グラハムに出会う。

 

バックミンスター・フラーと巡回展示の旅に出る。パリ滞在中、母から「野口の姓を名乗って日本に来ては行けない」という父の拒絶を伝えられる。ショックを受けるが、モスクワ経由で北京を目指す。北京では斉白石に学び、具象的な毛筆画を制作する。

 

父とは緊迫した関係にあるも来日。親戚の世話になる。京都を旅し禅庭園、埴輪彫刻を見る。陶工宇野氏のもとで統制兆候を制作。冬にニューヨークに戻る。

 

マーサ・グラハムの舞踏団のために初めて舞台装置を制作。長期にわたる共作の始まり。

 

ゼニス・ラジオ・コーポレーションより依頼を受け、インターホンをデザイン(ラジオナース)。ノグチにとって初めての工業製品である。

 

ハワイへ。初めての遊具をアラモアナ公園のためにデザインしたが実現せず。

 

友人アーシル・ゴーキーらと共にカリフォルニアまでドライブ。日本軍パールハーバー攻撃時はロサンジェルスに滞在。

 

過酷な日系人立ち退きと移住について当局関係者と協議。自らの意思でアリゾナ州ボストンの強制収容所に入り、環境改善プロジェクトに取り組む。6ヶ月後、強制収容所を離れ、ニューヨークに戻る。

 

ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構える。光の彫刻「ルナー彫刻」を作り、3脚のシリンダーランプをデザインする。(翌年Knoll社より製品化)複数の素材で彫刻を制作。

 

ニューヨーク近代美術館「14人のアメリカ人展」にて彫刻作品12点が展示される。翌年、父・野口米次郎死去。

 

ニューヨークのギャラリーにて14年ぶりの個展を開催。ボーリンゲン財団奨学金を得て、ヨーロッパ・アジアを旅する。

 

1931年以来の来日。講演を行い、様々なアーティスト、建築家と交流を持つ。建築家・谷口吉郎とともに東京三田の慶應義塾大学にて父・野口米次郎を記念する談話室のデザインを依頼される(1952竣工)。日本橋三越で個展を開催。陶器、家具、彫刻、模型等を展示。秋にニューヨークに戻り、日本人女優・山口淑子と出会う。

 

3月、日本に戻る。丹下健三の助力により広島平和大橋の欄干デザインを依頼される(1952竣工)。AKARIの製作開始。

 

丹下健三、広島市長の要請を受け、<原爆慰霊碑>をデザインするが広島都市建設専門委員会によって拒否される。

12月、山口淑子と神道儀式により結婚。陶芸家・北大路魯山人の鎌倉の家で暮らし始め、離れにアトリエも構える。新たな彫刻作品、AKARIを鎌倉・神奈川県立近代美術館の個展にて展示。

 

ニューヨークでの初のAKARI展を開催。

 

パリのユネスコ本部の庭園をデザイン(1958竣工)。岐阜にて鋳鉄の彫刻を製造。山口淑子と離婚。

 

横浜「こどもの国」のための遊び場をデザイン。はじめて実現した遊び場案となる。

 

マーサ・グラハム「鷲の葬列」の舞台装置をデザイン。これが劇場をめぐる最後の仕事となる。

 

香川牟礼にてシアトル美術館のための作品を制作。和泉正敏との共作が始まる。

 

大阪万博にて9つの噴水が実現。

 

東京・草月会館にてインテリア「天国」のデザインを始める(1978竣工)。

 

ショージ・サダオと共にニューヨークイサム・ノグチ庭園美術館の建設に取り掛かる(1985開館)。

 

香川県高松市牟礼のアトリエにて和泉正敏と共にイサム・ノグチ庭園美術館の建設に取り掛かる。

 

ロナルド・レーガン大統領よりアメリカ国民芸術勲章を授与される。

 

札幌モエレ沼公園のマスタープラン作成(2005開園)。新高松空港のための大型彫刻をデザイン(1995竣工)。勲三等瑞宝章授与。

 

ニューヨークにて死去。